人と川に多くの恵みをもたらす、四万十川のはじまり。

全国1位の森林率を誇り、見渡す限り山に囲まれている高知県。四万十川流域も例外ではなく、総面積の86%が森林となっています。山に囲まれた地域にとって、山は大切な生産の場所。常緑のツンツンした山は、杉やヒノキを植えた山です。

季節によって色づくモコモコした山は広葉樹が多く、木炭を作ったり、シイタケの栽培をしたりと、同じ山でも様々な営みが行われています。山を通して、暮らしが見えてきます。

川にとって、山は大切な存在。山が生き物のサイクルを支え、豊かな川の生態系が維持されます。山が四万十の清流と人々の暮らしを支えているのです。

四万十の暮らしを支えた林業

豊かな森林に囲まれた四万十川流域では林業の歴史も古く、四万十の木材は中世以前から良材として重宝されていたといいます。記録によれば元和から寛永の頃(1615~44)、「西伊予・紀州・泉州などから杣を呼び大木を伐ることが始まった」とあり、他国の杣により開発され、新しい林業技術が伝えられたと考えられています。山林は藩政期には藩の財源となり、御留山(おとめやま)として土佐藩によって厳重に資源が管理される山がいくつもありました。伐倒した材には持ち主の分かる印をつけ、水量の少ない上流域では、「堰出し」と呼ばれる堰き止めた川水を急に流し、その勢いを利用して材木などを運搬する方法や、「バラ流し・管流し」と呼ばれる一本流しで四万十川を使って運ばれました。ある程度水量のある中流域になると材を筏に組んで河口の下田まで運びました。西土佐の江川崎までは4枚2人乗りで運ばれた筏が、必ず12枚1人乗りに組み替えられたという話も残っています。木炭などの物資も船を使って運びました。中流域では主として船底が深く平らで船長の短いセンビ、高瀬舟を多く用い、江川崎から下流はセンバと称する船長の長く船底の浅い舟を多用しました。この舟運も昭和一〇年頃に姿を消しました。

森林軌道と陸送

舟運や筏に代わって流通の主力となったのは森林軌道やトラックなどの陸運でした。大正下津井の佐川営林署や黒尊など、流域各地に軌道跡が残ります。陸運への移行に伴い、道路や橋などのインフラが整備されるようになり、ここに至って沈下橋が登場します。それまでは、舟運や筏の妨げになる橋は作ることができませんでした。

四万十川本流で一番初めに作られた沈下橋は大井川沈下橋(旧十和村:昭和9年)、次が一斗俵沈下橋(旧窪川町:昭和10年 現存最古)、その次が野地沈下橋(旧窪川町:昭和11年)ですが、そこからしばらくは戦争の影響もあってか、建設されていません。戦後、ぽつぽつと架橋が再開され、ピークを迎えたのは昭和30年代です。今は四万十川のシンボルとなった沈下橋ですが、川を使った運搬と入れ替わりに出てきた新しい輸送の形なのです。

山の特産品

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自給自足のイメージが強い山の暮らしですが、実は商品作物の栽培が重視されていたことが最近の研究で分かってきています。四万十川流域でも、しいたけやお茶、楮・ミツマタ、近いところでは杜仲などが栽培されてきました。例えば、四万十町の旧十和村では、明治以来しいたけが栽培されていたことが分かっていて、生産量が全国トップクラスだった時代もありました。しいたけのタタキは郷土料理として今もなお住民に愛されています。 中土佐町の大野見地区では七面鳥の組合ができています。その時々に売れるものが作られ、時流に乗り遅れたものは廃れていきました。 津野、梼原といった源流域の山村から維新の志士たちが多く出たのも、理由のないことではないのかもしれません。

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【木材】ヒノキカグ

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四万十町産ヒノキで作った家具や雑貨を取り扱っています。
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高知県高岡郡四万十町瀬里55-1
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ヒノキカグ公式サイト

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オーストリア出身のご主人とご家族が営む紙漉き体験のお宿。
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高知県高岡郡梼原町太田戸1678
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0889-68-0355
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【紙漉き】十川泉貨紙

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高知県高岡郡四万十町大井川
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