四万十川の姿

四万十川流域の文化的景観

四万十川は高知県高岡郡津野町の不入山(標高1,336m)を源流として、南西に大きく蛇行しながら多くの支流を集め四万十市で太平洋に注ぐ、幹川流路196km(四国第一位)、流域面積2,270㎢(四国第二位)の一級河川である。

広大な流域面積は高知県・愛媛県にまたがり、関係市町村は高知県側が2市5町1村(四万十市・宿毛市・黒潮町・四万十町・中土佐町・津野町・梼原町・三原村)、愛媛県側は1市2町(宇和島市・鬼北町・松野町)に及ぶ。その支流は30km以上のもの6本、その他大小の支流をあわせると300本を越える多さである。

四万十川やその支流はその流路が長いため、源流域・上流域・中流域・下流域で大小高低の四国山地の山間を縫って流れる。このため、流域の各地では多様な厳しい気候風土となり、縄文・弥生時代からの自然と人とが織りなす様々な景観が生まれ、生業が育まれてきた。

特に稲作伝来後の四万十川流域の農業の発展は目覚ましく、上流域では深い山の急斜面を活かした棚田や段々畑で、中流域・下流域では四万十川や支流により堆積された河岸段丘が時代の要望も手伝って、余すところなく開拓され続け、四万十川の豊かな水の恵みにより耕田となって現在にいたっている。

一方山間の四万十川奥地の森林は日本でも有数な多雨地帯の風土により悠久の良木原生林を育て、河川を涵養し、高知県東部の森林とともに土佐を有数の木材の産地に導いた。中世から土佐の木材は京阪神へ移出されていたが、藩政期の林業政策により管理された御留山から搬出される木材は土佐藩財政を担う重要な財源となり、近代期には国有林業として明治・大正・昭和の各時代の地域経済を支えてきている。

これらの山林資源は、四万十川や支流河川の水運や陸送により下流の下田港(四万十市)や佐賀港(黒潮町)、久礼港(中土佐町)などへ運ばれ、高知市や阪神方面への廻船によって移出され交易を生んだ。流路の長さと流域面積の広さ、山間と海浜の厳しくも豊かな気候風土は、それぞれの時代を通じて、実に様々な四万十川流域固有の生活・生業を生み、景観を形成してきた。

また、洪水時には「暴れ川」と異名をとるこの川に適した橋として、昭和期に盛んに架橋され残された沈下橋は、人々の生活と共に地域の自然と調和し独特な景観を形づくり清流四万十川の風情を醸し出している。

沈下橋の両側には必ず集落が存在し、交流や田畑への耕作用の生活道として使用された。多雨地域特有の切妻造りや寄せ棟造りの民家の屋根は背景の山々や河川の低彩度の色彩に溶け込み、この地域の景観要素となっている。

流域の各所においては、伝統的な漁業が行われ、とりわけ盛んなアユ漁では「友掛け漁」、「投げ網」、「火振り漁」などの各種の漁法が行われている。

このように、険しい山間を蛇行する四万十川の流域には、古来より山や川と関わり、調和しながら営まれてきた人々の暮らしが今に続いている。それらの暮らしの営まれる場は、地域ごとに独自の発展を遂げた重層的価値を持った文化的な景観である。