祝 350号を迎えました
みなさまのお陰様をもちまして、今月で清流通信は350章を迎えました。そこで、今回は「350」という数字にちなみ、およそ350年前の四万十川流域に光を当てます。その時代――江戸時代前期(厳密にいうともう少し昔)、土佐山内家の家老として国の政治・経済的基盤を築いたレジェンドがいました。野中兼山(のなか・けんざん)、その人です。下に国史大辞典からの引用を載せましたが、「南学の興隆のほか、土木事業、新田開発、郷士の取立、殖産興業の発展、村役人制の強化、専売制の実施、宇和島藩との国境争論の解決などに大きな業績をあげた」とあるように、まさに八面六臂の活躍をした偉人です。その野中兼山と四万十川との関わりについて、今回取り上げてみたいと思います。
■ 敏腕奉行 野中兼山
兼山といえば、少し前になりますが、平成29年1月の施政方針演説の中で、兼山が子孫のためにハマグリを撒いたという『先哲叢談』(1816年)の逸話を安部首相が紹介し、全国的にも有名になりました。そもそも野中兼山という人は、祖母が主家筋(土佐山内家初代、一豊の妹)で、兼山の父(つまり初代藩主の甥)は一豊から将来加増(一説には中村を任せるという話だったとも)を約束されていたものの、一豊の死後その約束を反故にされ、土佐を出て浪人になりました。父の死後、兼山は母を連れて土佐に帰り、奉行職にあった親戚の養子になり、家老として藩政を牛耳るに至るという、 ー 要するに、創業社長の孫が落ちぶれてたけどすごい才能あふれるやり手で、祖父の会社に帰ってきたと思ったらつぎつぎ大胆な事業をやり遂げ経営を立て直すに至るという、池井戸潤さん原作のドラマになりそうな人なんです。

野中兼山 のなかけんざん
一六一五 - 六三
江戸時代前期の土佐国高知藩士、家老・儒学者・政治家。名は止(し)また良継。幼名は左八郎、通称伝右衛門または主計・伯耆という。号は兼山。元和元年(一六一五)正月二十一日播磨国姫路で出生と伝う(六月説もあり詳細は不明)。父は野中良明、母は秋田氏(大坂天満の商家)の女万。祖母は山内一豊の妹合姫(慈仙院)。父良明は山内一豊の死後、慶長十三年(一六〇八)知行高について一豊との約束不履行を不満とし土佐を出て浪人となり、先妻の縁をたよって姫路に赴き、のち京都に寓居したが、先妻は死去し、同十四年万を後妻に迎う。良明は元和四年に死去したと伝え、兼山は同年母とともに土佐に帰り、分家の野中直継を頼り、のち直継の養子となり女市を妻とす。寛永八年(一六三一)直継とともに奉行職となり、同十三年直継の死後野中家の家督を相続し、父祖の所領長岡郡本山の約六千石を領して奉行職に専任し、寛文三年(一六六三)の失脚に至るまで約三十年間土佐藩政を掌握し、藩政の基礎を築いた。天性英敏、剛毅な人物で政治・経済の手腕は群をぬいていた。 ー 中略 ー 兼山は寛永八年高知城下江ノ口の瑞応寺で禅を学んだが、同十三年小倉三省の紹介により儒学に転じた。在地学者で海南朱子学(南学)の継承者谷時中に三省・山崎闇斎とともに学び、兼山は南学による封建道徳を施政方針とし、領民には封建秩序を強化した。二代藩主忠義・三代忠豊に仕え、南学の興隆のほか、土木事業、新田開発、郷士の取立、殖産興業の発展、村役人制の強化、専売制の実施、宇和島藩との国境争論の解決などに大きな業績をあげた。 ー 中略 ー 兼山は南学の趣旨を実践し、火葬を禁止したが、土葬は以後土佐の慣習となった。生母の儒葬も盛大をきわめ幕府の忌諱にふれ、弁明してようやく許されたのであった。兼山の殖産興業、土木事業の中で、蜜蜂の飼育、薬草の栽培、蛤の移殖、室戸港・手結(てい)港・柏島港の開削などが有名であるが、中でも河川の改修、堰の設置による用水路の施設工事は新田開発の成果をもたらしたので特筆される。吉野川流域の宮古野(みやこの)溝、物部川の山田堰・父養寺(ぶようじ)井筋・野市井筋、仁淀(によど)川の弘岡井筋・八田(はた)堰・鎌田堰、四万十(しまんと)川や中筋川の改修、松田川の河戸(こうど)堰など、河川の土木工事によって開発された新田開発面積は三千八百七十二町に及んだという。これらのうち香長(かちょう)平野の新田開発にあたり、新田を知行地(領知)として与えることを約束して長宗我部氏の遺臣(一領具足)を郷士に取り立てた。彼らの不満をやわらげ、土地を造成し、非常の際の戦力とする巧妙な政策であった。初期の百人衆郷士からのちには千人近い郷士が生まれ、藩政に大きな影響を及ぼすこととなる。さらに「本山掟」「弘瀬浦掟」「国中掟」などを発布して領民支配を強化した。 ー 後略 ー
(国史大辞典より引用)
最期はまつりごとあるあるで、庶民の恨みを買い、政敵に追い落とされて失脚、幽閉中に49年の生涯を閉じます。野中家は改易(とりつぶしですね)となり遺族までもが幽閉され、それは男系子孫が断絶するまで続くという過酷な処分でした。高知で兼山というと、偉人なのに常に暗いイメージが付きまとうのはこれが理由です。もちろん、兼山自身にも原因はあって、言ってしまえば儒学原理主義者で下々にこれでもかというほどに厳しい。あちこちに兼山の過酷な仕打ちの話が残っているくらいです。
■ 四万十川と野中兼山
兼山が活躍した17世紀半ば、土佐の国は辺境の貧しい国だったといわれます。四万十川流域も、度重なる大洪水や渇水に悩まされる荒地が多かったと考えられます。
皆さんご存知の通り、江戸時代の経済の中心は、お米。土佐藩の政治をけん引する「奉行職」を務めていた兼山にとって、農民にいかに多くの米を作らせて、年貢として納めさせるかが重要であり、安定した稲作を行うためには、川とどう向き合うかが最大の課題でした。
そうした中で兼山が目をつけたのが、四万十川の支流・後川の麻生地区でした。この地域は、山に囲まれる広い平地があるものの、高低差が少ないことから、米を作るのに十分な水がとれない地域でした。周辺の四つの村(安並・秋田・佐岡・古津賀)に水を供給したいという問題もあったといいます。そこで兼山は、堰を造って用水路を引き、荒地を水でうるおし、石高を増やそうと考えたのです。
■ 麻生堰 — 後川の流れと対話する土木遺産
四万十川の支流・後川に築かれた麻生堰は、全長160m・幅11m。上空から見た時に曲線になっていて、さらに流れに対して斜めに配置された「 曲線斜め堰 」という特徴的な構造を持っています。傾斜がなだらかなので魚類の往来を妨げにくく、また川の力を真正面から受け止めるのではなく、流れをいなしながら水を取り込む――自然と対話するような発想が、堰の形に表れています。

曲線部分は、「糸流し工法」という兼山独特の工法で作られています。水圧を分散させ、洪水時には中央部が自然決壊してたまっている土砂を流し、水害の発生を防いだといわれています。350年以上前に築かれたにもかかわらず、現代から見ても合理的で美しい構造であり、近世土木の技術の高さを今に伝えています。 土木学会の「選奨土木遺産」にも指定され、歴史的・技術的価値の高い構造物として評価されています。

上の絵は、高知市春野郷土資料館に所蔵される仁淀川・八田堰の工事を想像して書かれたものです。麻生堰と同じ「曲線斜め堰」になっており、どのように麻生堰が作られたかを知る手がかりになります。八田堰建造当初、巨石や大木を投入したものの、ひとたび洪水が起こるとそれがひとたまりもなく押し流されてしまった、そこで「四つ枠工法」という構造が採用されました。大きな木を四つに組んで“ぬき”を通し、そこに石を入れて岸の両側から順に沈めて工事を進めたそうです。(詳しくは「野中兼山はるの用水路と水運路」)四つ枠を固定するための基礎杭が、県営かん排事業による改修時に判明し、現代の機械力でもなかなか抜けなかったというエピソードがあるそうです。
■ 四ヶ村溝 ― 四つの村へ水を届けた大水路と安並水車の里

四ヶ村溝は、秋田・安並・佐岡・古津賀の四村へ水を送るための大規模な用水路で、総延長はおよそ7キロメートルにおよびます。山裾を縫うように掘り進められた水路により、四村では水田が拡がり、人々の暮らしは安定していったと考えられます。

この水路の流れをさらに活かしたのが「四ヶ村溝の水車」です。用水路より高い位置にある田んぼに水を汲み上げるため、多くの水車が設置されました。明治初期には約50基が回っていたそうです。


現在も、安並の地には「安並水車の里」として、その姿が保存されています。今もゆっくりとまわる水車は、かつての暮らしを優しく伝え、用水路沿いに植えられた450本余りのアジサイが四季の彩りを添えます。約350年前、農を支えるために築かれた水路が、今では地域の風景と歴史文化を伝える場所となっています。
兼山は、四万十川の他にも、土佐国内各所で堰や水路を作り、港湾整備もしました。堰と水路でいえば、吉野川流域の宮古野溝、物部川の山田堰・父養寺井筋・野市井筋、仁淀川の弘岡井筋・八田堰・鎌田堰、松田川の河戸堰など、その結果開発された新田開発面積は3872町に及んだといいます(前掲国史大辞典)。港湾では、室戸港・手結(てい)港・柏島港の開削など(同書)が挙げられます。
兼山のマルチな才能
兼山が土佐にもたらしたものはそれにとどまりません。どこまでが史実でどこからが兼山伝説なのかよくわからないところもありますが、養蜂や製紙、木綿、桑、麻、薬草、椎茸の栽培、さらには捕鯨などの殖産政策も兼山がやったことになっていますし、NHK朝の連ドラ「アンパン」の舞台にもなった御免与町のモデル、南国市の御免町は今風に言えば兼山の設けた経済特区です。四万十川に関係するところでは、鯉を土佐国に連れてきたのも兼山ということになっています。これにはさらに尾鰭みたいな話がついていて、1万尾の鯉を放流が定着しないので兼山が悩んでいたところ、ある人に「ナマズと一緒に放したら良い」と教わり、1万尾の鯉と1万尾のナマズを放流したところめでたく鯉が居着いた、なんていう話になっていたりします。兼山はまた、山林の保全を行なった人物でもあります。50年輪伐制(これは上役の小倉少介の施策ですが)や留山制、留木制など、ここでは詳しく述べませんが、持続的林業を目指す取り組みも行いました。
終わりに
350章を記念して何か出来ないだろうかとスタッフで捻り出したのが、今回の「四万十川物語」でした。いかがだったでしょうか。記事を終えて、改めて感じる事は、四万十川がいつの時代にもここに在り続けること。そして、それぞれの時代に川と向き合い、格闘してきた歴史があること。今回、兼山とそこに暮らした当時の人々が遺した麻生堰や四ヶ村溝の歴史を知り、私達がこれからの四万十川をどう守り、どう活かすか問われている気がしました。
清流通信は、これからも四万十川の魅力や川と共に歩む流域の人々にスポットをあて、皆さまに有意義な情報をお届けできるように精進してまいります。今後ともどうぞよろしくお願いします。
参考資料
https://joe.ash.jp/yousui/sikoku/asou.htm https://www.kochinews.co.jp/files/kodomo4koma/%E9%87%8E%E4%B8%AD%E5%85%BC%E5%B1%B1%E3%81%AB%E3%81%9B%E3%81%BE%E3%82%8B%EF%BC%81.pdf https://www.jsidre.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/03/keisai_53-9hito.pdf https://tosakikoh.exblog.jp/1557115/ http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=344&p=1
