大﨑 光雄(おおさき みつお)

基本情報

・梼原町豊原出身

・1956年生まれ

「最近年を取って、感性がなくなる辛さを感じる。椎の木の叫びの時のような文章が書けなくなってきた。それがなんとも寂しい。若い時の感性を大事にしてほしい。」

取材中の大﨑さんの言葉

「曼荼羅って知っていますか?なんにでもあの輪のような重なりがあると思うんだ。」

取材中の大﨑さんの言葉

大﨑さんに会いに行く

新聞で大﨑さん発見!

ある日の新聞に、「『茅葺き』の技と魅力を後世に 元町職員が取材、出版」という記事が載った。その元職員が四万十リバーマスターの大﨑光雄さんだ。

取材をしたのは梼原町立図書館。取材をはじめると女性が近づいてきて、「本読んだよ~大﨑さんらしい文章で面白かった。おもちはお祝いに私からプレゼント。」聞くと、集落活動センターしまがわ「よりくんど」の方で、四万川にこだわった焼き餅「みかえり焼き餅」をつくっているらしい。大﨑さんの人柄なのだろう、やり取りから地域の人との繋がりが伝わってくる。

大﨑さんとよりくんどの方と

悪ガキ?少年 大自然をかけまわる

今では、筆達者な大﨑さんだが子どもの頃は勉強が嫌いで外で遊びまわっていたという。「悪ガキだった。小学校で読んだ本は『なぜだろうなぜかしら』という本だけ。妙に覚えているけど。」。大﨑少年は悪さばかりしていたというが、自然の中を思う存分遊びまわり、その時の思い出が今につながっている。

梼原のために 37年間

本の出版や雑誌への投稿が印象的だが、大﨑さんは37年間行政職員として勤めた。県庁から梼原町職員へという経歴を持ち、関わった事業は多々ある。その中で印象に残っているのは、太郎川公園担当、千枚田オーナー制度の創設、健康長寿&保健福祉支援センター時代のことだ。梼原町を代表とする憩いの場である太郎川公園の初期整備を担当したのが大﨑さんだ。その中で、梼原の自然をテーマにした本の発刊や影法師日時計の設置、「茶堂」の接待復活などにも関わってきた。特に茶堂のお接待では、ボランティアグループが35年にもわたる活動を今でも続けていて、女性の力のすばらしさを実感したという。

今では国の重要文化的景観として名高い神在居の千枚田オーナー制度(「都市部で生活する方々に、棚田のすばらしい景観の中で米づくりを体験していただき、農作業を通じた癒しの提供と、中山間地の現状を知っていただく貴重な取り組み」梼原町HPより)を設立し、この日本初の試みが現在では日本各地に広まっている。

中越準一元町長の発案による保健福祉医療統合のための老人福祉計画策定と梼原型病院の体制づくりの担当としては随分苦しんだそうだ。初めての保健福祉関係の仕事で、その道の人々との付き合いの中で非常に多くを学んだという。

太郎川公園にある茶堂

伝えたい想いを筆にのせる

絵本「椎の木の叫び」から

「僕が文を書いて、絵は違う人だけど。まあ、読んでみて。」
30年前に書いた『椎の木の叫び』という絵本だ。大﨑さんには伝えたい想いがあった。

梼原の和田島(今の和田城付近)に立っていた椎の木の叫びが描かれていた。自然に溢れる梼原でさえ、人間の都合で切られる森や木があった。
「昔の家族写真を見ると、本当に素敵な顔をしているんだ。苦労していたのに。何が幸せかわからないね。人間はこのままでいいのだろうか。自然から離れるのは人間の生き方として何か違うのではないか。機械は必要だけど、どこかのタイミングで自然に帰ることを考えるべきではないか。」

絵本は、大﨑さんが保健福祉に関わっていた頃に一晩で書き上げたものだ。太郎川公園担当当時、新しい学習館の建築のために支障木を伐る話があり、その時の想いがきっかけになったのかもしれないと振り返ってくれた。絵本の背表紙そでにはこうある。

でっかくて、ゆったりしてるなぁ。おまえは。
そよ風に歌う おまえは 潮騒だ。
お前にもたれて見上げる 木洩れ日は 波間にきらめく 太陽だ。
私を優しくつつんでくれる おまえ。
おまえと海は 一つなのだろうか。

『椎の木の叫び』

今は便利になったけど、自然と生きる感覚が失われてしまっているのではないか。茅葺きも椎の木も自然と生きる人々の中に流れているなにかがあった。昔の子どもは、自然と遊ぶことが当たり前で、常に自分で考える力を鍛えられた。例えば、美味しい柿はどこにある?どうやって採るのか?それらは自然を注意深く観察することで得られる答えだった。今ならば、ネットで「柿の木 美味しい どこ」で検索し「柿の木 柿 採り方」を動画で見ることだろう。と二人で笑いあった。

「なやしの部分がなくなっている。生き物としての目をもつ力がなくなっている。生きているもの(自然)とそれ以外の違いがあると思う。」と大﨑さんは言う。

大﨑さん作の絵本「椎の木の叫び」
絵本に登場する椎の木の切り株*梼原町の和田城跡後ろにあります。
絵本に出てくる椎の木で作られた椅子*梼原町役場のトイレ前にあります。
絵本に出てくる椎の木で作られた椅子とテーブル *太郎川公園きつつき学習館(大﨑さんより提供)

茅葺き職人 川上義範さん との出会い

『椎の木の叫び』から続く自然と人とのあり方についての課題意識は『茅葺き伝』にもつながっている。

「四国でただ一人の茅葺き職人、チームが梼原に残っており、茅葺きの建て物も四国内には未だに数十棟の茅葺き屋根が残されている。人から人へと伝える技は機械のそれとは違う。機械は設計書やマニュアルがあれば高い位置から再出発できるが、人は一度ゼロに戻ってからスタートするしかなくて長い時間がかかる。また、茅葺きは、地域にある1年で育つ「 茅 」という素材を使って葺き上げてほぼ20年間もたせることができる。今、SDGsばやりだけど、茅葺きはそうした意味でも本当にすごい技だと思うけどなぁ。」

2019年秋、「ゆすはら大学」で四国唯一の茅葺き職人 川上義範氏の茅葺の話を聞いて、感銘を受けた。その会の主催者から「茅葺きを伝えるもの残さないか」とオファーされ、執筆をすることに。だが、大﨑さんは2か月後に入院生活を余儀なくされ、半年後、半身が不自由な身で調査・執筆を行うことになる。何度もあきらめかけたが歯を食いしばり3年がかりで仕上げた。入院中に病室に飾られた絵が気に入り、その絵を描いたという作業療法士の女性に挿絵を頼み、口説き落としたというエピソードも聞いた。章ごとの挿絵には意味があり、カルストの風景から始まってすすきの成長を描き、最後には茅葺きになる。

大﨑さんは他にも執筆を行っている。季刊誌『リージョンビュー』(第一法規出版)の「四万十川のほとりで」(2年間全7回)に、周辺の暮らしの一コマを書き、大脇游主宰の「風-市民と共に 創る公衆衛生」という月刊メルマガに7年間投稿を行った。大﨑さんの文章には語りかけてくるようにひしひしと伝わるものがあり、独特な面白さがある。ぜひ読んでいただきたい。

大﨑さん著の『茅葺き伝』
梼原町太郎川公園ふるさと広場の茅葺き

「モンゴルに行ったことがあって。」

ところで、他に好きなことはありますか?「ざっくりとした自然が好きだね。大きい枠で見た自然。あとは車いじったりは昔から好きだったかな。好奇心旺盛で飽きっぽいから長続きはしてない。」文章も短時間で書き上げてしまうというので、思ったその時にやり切ってしまうのだろう。
「モンゴルに行ったことがあって。」
 ― どうでしたか? —
「過疎って何だろうって思った。」
モンゴルに行ってもなお、梼原の行く末を考えていたのだ。モンゴルの圧倒的な広さとゲルをたてながら転々とする遊牧民の生活をみて、過疎とは何なんだと思ったらしい。たいした目印もなくただただ広い半砂漠では、轍を頼りに行く。少しのずれが命取りになりかねない。一度は遭難して幻覚を見たこともあった。そんなモンゴル行きの目的はラリースタッフと恐竜の化石発掘ができることだったそうだが、実は当初それほど興味があったわけではないらしい。すごい好奇心と行動力だ。

大﨑さんとモンゴルの景色*大﨑さんより提供
恐竜博物館にて館長と一緒に*大﨑さんより提供
当時発掘を手伝ったタボザウルスの絵 恐竜博物館菅長作*大﨑さんより提供

今回、大﨑さんを取材して、自然と人の関りとは何かを考えた。大﨑さんがずっと考え続けている大切な課題。それを表現できる力と行動力がすごい。

大﨑さんは「四万十川に関わることは何もしていない」という。でも、これだけ四万十の文化や自然を伝えている人もいないだろう。これからもぜひその力をお貸しください。四万十リバーマスター大﨑さん、これからもよろしくお願いいたします。