四万十川の中流域に位置する四万十町大正地域。ここにある道の駅四万十大正には「ミュージックトイレ」というトイレがある。人が近づくと曲が流れるからミュージックトイレなのだが、そこで流れるのが、「四万十の青き流れ」という大正町(現四万十町)のイメージソングだ。四万十川の雄大な雰囲気を感じさせる音楽と、四万十川を舞台にした恋物語が歌われたこの曲は、いったいどのようにして作られたのだろうか。
 今回は、「四万十の青き流れ」ができた経緯を探ってみた。

 四万十の青き流れ  作曲・歌 さとう宗幸  作詞 立松和平 

 缶ビールを列車の窓に立てて
 遠ざかる山を見ながら
 君のもとに帰る
 よどむことなくゆく水の
 澄んだせせらぎが
 俺の胸に響きつづけるいつまでも
 緑に染まる川面こそ
 愛し君の面影
 四万十の青き流れを
 たたえたい

 どうしてこんなに気持ちせかれる
 心の呼ぶ声をきいている
 君を抱きしめたい
 流れつづける夢ひとつ
 バスは走るよ
 君の暮らす山の町が近づいてくる
 とうとうとゆく水と雲
 ああ君の立つ岸辺
 四万十の青き流れを
 たたえたい

 涙ぐむ君の笑顔が揺れる
 かき抱く俺の腕には
 君の鼓動が伝わる
 俺は何度も考えた
 何が大切か
 生命の限り正直に生きるんだと
 四万十の流れとともに
 俺たちここに生きる
 四万十の青き流れを
 たたえたい

制作のきっかけは飲みの席

 お話を伺ったのは、大正地域で農家民宿「里山」を営む清水正一さん。清水さんは大正で生まれ、旧大正町役場で退職まで勤め上げた。曲ができるきっかけは平成3年のこと、清水さんのお義姉さんがお宿を経営されていて、そこで飲み会をしていた時に、たまたま宿泊客だった東北学院大学の教授と知り合ったのが始まりだった。

農家民宿「里山」を営む、清水正一さん

「当時はバブル期というのもあって、全国でふるさと創生事業を国が積極的に推進していて、旧大正町でも人材育成に取り組んでいたんです。それで発足した「四万十川大学」という、若者を中心にした人材育成塾に参加して、町の活性化を目指して活動していました。でも、すぐにいい案が出るわけでもなく、勉強会等も開きながら模索の日々が続いていたんです。ちょうどその頃に知人の送別会があり、宿の廊下でたまたまお会いした先生を、会の席に誘ったんです。お酒を飲みながら、郷土の有名人の話になって、そこで仙台には さとう宗幸 さんがいる、さらに先生が仙台の広瀬川の自慢をされるものですから、私は、お酒も手伝って、四万十川もいい川だと、四万十川の歌も作れないかと冗談半分で言っちゃったんですね。そしたら後日先方から電話があって、さとうさんが四万十川の歌を作ってくれるというんです。正直困った話になったと思いましたね。飲みの席で言ったことが、まさか本当になるとは思わなかったものですから。」

 そんな漫画のようなことがあるのかと思うが、そこから四万十川の歌に向けた動きが進んでいったのだった。

「慌てて塾長である町長に相談に行ったときは怒られましたね、なんてことをしたんだと。それでも諦めず四万十川の清流保全とPRにつながるのではないかと説明したところ、3日後に町長から仙台に行くぞ、と言っていただいて、10日後には仙台で さとうさん にお会いしました。こうして四万十川大学の活動として、大正町のイメージソングを作ることになったのですが、他の塾生達と考えた案ではないので、塾生が賛同してくれるのか、不安がありました。けれどもふたを開けてみると、みんなが「よしやろう」と言ってくれたんです。それで余計に、言い出しっぺは自分なので、責任をもってプロジェクトに取り組まなければと強く思いました。とにもかくにも、突飛な提案を受け入れ、協力してくれた上司と塾生には、本当に感謝しかないですね。」

 曲ができたのは、あくまでも理解ある上司と仲間たち、そして町民の皆様がいたからこそできたもので、感謝しかないと清水さんが繰り返していたのが印象的だった。
 制作にかかる費用は住民から寄付を募ったほか、塾生がアルバイトをしながらなんとか捻出したとのことで、四万十川大学全体でこのプロジェクトに取り組んでいたことが伺える。背景を知ると、曲の価値が一層強く感じられる。

「制作には約6カ月かかりました。その間何度も打ち合わせを行い、さとう氏 にも大正に来ていただきましたし、こちらから仙台、大阪にも行きました。そのなかで、町のPRだけでなく、四万十川の清流保全も同時に発信できるような歌にするためには、作詞もプロに任せた方がいいと提案があったんです。そこで、立松和平さんに さとうさん が依頼してくれて、作詞を担当していただきました。立松さんは四万十川に何度も訪れて、本も書いていますから、そういう理由もあったんだと思います。人気歌手と人気作家のコラボですから、その話題性にメディアも注目してくれ、たくさんの応援をいただくことができました。」

「四万十の青き流れ」に込められた四万十川への思い

 大正町のイメージソングの作成を依頼されたさとう宗幸氏は、「四万十の青き流れ」の作曲と歌を担当されている。清流四万十川の雄大さを思わせる音楽と、さとう氏の澄んだ声がとてもマッチしていて、聞くたびに四万十川にぴったりのいい曲だなと思う。
 さとう宗幸氏にも当時のことをメールで伺った。ご多用のなか取材に対応していただいたさとう氏とマネージャーの久保純氏には、改めてここで感謝を申し上げたい。

さとう宗幸氏(写真提供:嵯峨倫寛)
① どのような思いで曲作りを承諾されたのですか。
― 依頼をいただく前に、仙台の広瀬川を源流からテレビリポートされた立松和平さんと対談する機会をいただき、日本の残された清流に殊更に関心を持っていた時期でした。当時の大正町から依頼を頂いた時には逡巡することなく喜んでお引き受けしたのでした。
② どのような思いで制作されたのですか。
― 四万十川の源流に位置している大正町、更に海に至るまでの流域で清流を守る人たちが大いなる誇りと自負を意識され、後世に美しいままに残されていくことを期待し祈念しつつ書き上げた楽曲です
③ どのような経緯で立松氏に作詞を依頼したのですか。
― ①の経緯もあり、幾度となく足を運ばれている立松さんに詩を書いていただこうと!それ以外に全く考えませんでした。喜んで引き受けて頂いたのでした。

 作詞を担当した作家の立松和平氏は、「四万十川に生きる」、「最後の清流四万十川を行く」を執筆されるなど、四万十川を何度も訪れ、清流保全の重要性を訴えていた。立松氏は著書「僕は旅で生まれ変わる」で、「四万十の青き流れ」作詞の思い出を以下のように記している。

久保さんの話により、高知県大正町に歌づくりを頼まれたのだということがわかった。〈中略〉結局人は物語が欲しいのである。この土地はいいという物語があれば、生きていくことができる。土地の物語がいつしか私の物語になる。その物語を作るには、なるほど歌は有力な手段である。そのためには、歌の中に物語がなければならないと考えた。〈中略〉もちろん四万十川が本来持っている物語だけでは、歌にはならない。歌が独自に持っている物語をつくらねばならないのだ。四万十川の流域で暮らす人の物語であるが、多少普遍性を持たせるために、故郷にUターンする青年の姿を思い描いた。故郷には愛しい人が、つまり恋人であってイメージとしては四万十川であるのだが、待っている。

ファックスでさとう音楽事務所に詞を送ると、しばらくしてからさとうさんの声で歌われたテープが送られてきた。それを私は何度も何度も聞いた。清冽でいい曲である。やがてこのことで私は取材を受けたりしているうち、歌をつくろうと考えたのは町役場ではなく、青年団や農協、森林組合の若者で構成している町おこしの勉強会グループ「四万十川」大学なのだということを知った。とにもかくにもいい歌ができてよかった。
 

『僕は旅で生まれ変わる』

また、立松氏は1991年9月19日出版の週刊文春のなかで、「僕は四万十川が好きで割とよく知ってるんです。〈中略〉四万十川のおもしろいところは伝統漁法の川魚漁師がいたり、川の水で稲作をしたり、ダムを作ったりと、生活が川中心にあるんです。今ではそういう“生命の真ん中を流れる川”が非常に少なくなっていますね。日本で最も美しい川の一つの四万十川ですら下流域では汚れてきています。自然の営みを急速に破壊している日本への危惧も、この詩を作るきっかけになりました」と語っている。

いつまでも愛される曲に

 このような思いで作られた「四万十の青き流れ」は、1991年8月に完成した。デモテープを聞いた塾生たちは、「さとうさん たちの四万十川への思いが伝わるとてもきれいな曲だ」と感激したという。新聞各社も、大正から四万十川の歌が誕生したと大きく報じた。同年9月8日には、「四万十の青き流れ」のお披露目兼 さとう宗幸コンサートを轟公園で開催した。町内外から約2500人が来場し、テレビ局の取材が入るなど、大いに盛り上がった。町としても大規模なコンサートはこれが初めてだったが、看板も塾生たちが手作りするなど、町が一体となって準備に取り組んだようだ。コンサートでは「四万十の青き流れ」の他、「青葉城恋唄」などの楽曲も披露され、最後には塾生も舞台に上がり、さとうさん と一緒に[四万十の青き流れ]を歌ったそうで、当時の新聞記事にもその様子が写されている。

「町民からも、多くの喜びや感謝の声をいただき、町外からも感謝のハガキが届くなど、たくさんの方に喜んでいただけました。またこのことは、某航空会社の機内誌など多方面から取材依頼をもらい、私たち塾生としても貴重な体験をさせていただいたと思っています。これ以降、私自身は、地域振興にかかわる部署に異動し、産業活性化などの取り組みに携わるなど、私の役場人生のターニングポイントにもなりました。今は農家民宿の傍ら、トロッコ列車のガイドもしていますので、お客さんに道の駅のミュージックトイレを勧めたりもしています。これからもたくさんの方に聴いていただきたいですね。」

 「四万十の青き流れ」は曲ができて30年以上経つが、今でも多くの四万十川ファンに愛されている名曲だ。役場の電話のコール音に使われたほか(現在は変わっている)、道の駅のトイレで流されるなど、今も大正地域のイメージソングとして活用されている。また、JR四万十大正駅の前にあるゲストハウス「EKIMAE HOUSE SAMARU」の外壁に設置している仕掛け時計では、1時間ごとにメロディーが流れるそうなので、ぜひチェックしてみてほしい。さらに、道の駅四万十大正の情報館では、現在もテープを販売しているとのこと。四万十の旅のお供に、または旅の思い出に手に取ってみてはいかがだろうか。

農家民宿 里山

 さて、清水さんは現在、大正の市の又集落で奥さんと一緒に一棟貸しの農家民宿「里山」を経営している。ご実家を改修して、平成23年7月にオープン。四万十川流域の農家民宿や農家レストラン、カヌー業者などで構成する「四万十川すみずみツーリズム」の副会長も務めている。
 お宿を始めるきっかけは、グリーンツーリズムの視察でヨーロッパを訪れたことだった。ヨーロッパでは早くから、農村を舞台に、暮らしや文化を体験しながら余暇活動を楽しむ観光が普及していて、視察を通して、「自分もやってみたい」と思ったのだそうだ。

農家民宿 里山
見事な石垣に建つ立派な古民家で泊まることができる

「訪れたオーストリアのチロルには牧歌的な農村風景が広がっていて、そこで観光が成立しているのを見たときに、これは四万十の山奥でもできるぞと思ったんです。また、中津川地区で田辺客子さんが農家民宿「はこば」を始めたことにも背中を押されました。田辺さん夫婦が先陣を切ってやっているのを見て、よし自分もやろうと思ったんです。実家が空き家になっていましたから、そのままにしていたら腐るだけですし、年に4~5組来ればいいやと思って始めましたが、おかげさまでリピーターも増えてきて、楽しく続けられています。
 宿をやっていて一番うれしいのは、リピーターの子どもさんの成長を見られることです。最初の頃は赤ちゃんだった子どもが、次の年、また次の年とだんだん大きくなって、5~6歳になるとカバンを背負って来てくれたり。去年来てくれた時にはもう中学生になっていました。その分自分たちも年を取ったんだなと思いますが、こんなに大きくなったんだなと感慨深いですね。これは宿をやっていなければなかなかできない体験だと思います。また、こんな山奥のぽつんと一軒家みたいなところの、なんでもない風景が、都会の人にとっては新鮮に映るそうで、星空やホタル、山間の自然など、当たり前の風景が財産だったんだとお客さんから教えてもらいました。これも宿をしていなければ得られなかった気づきだと思いますね。なので、お客さんには、四万十のなんでもない日常の生活を楽しんでいただきたいと思っています。」

 里山の魅力は、四万十らしいゆったりとした暮らしが体験できるところだ。築55年の古民家を活用したお宿には、今では珍しくなった囲炉裏や五右衛門風呂も健在で、薪を割ってお湯を沸かせば、入ったときの感動はひとしおだろう。広々としたお部屋でゆっくりとくつろぎ、鳥の声や木々のさざめきに耳を傾けてみてほしい。また、おかみさんお手製の、四万十の山と川の恵みがたくさん詰まった美味しい料理はどれも絶品。ご夫婦との楽しい会話とともに、美味しい食事を楽しむ、そんな温かな時間を過ごすことができる。希望があれば、畑で野菜を収穫したり、山菜採りに行ったり、ホタルを見に行ったり、伝統漁法(アユの火振り漁)を体験したり、その時々にできる里山ならではの暮らしを体験できるので、ぜひ泊まりに来てみてほしい。その際は、ミュージックトイレに寄ることもお忘れなく。

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