四万十川に架かる赤鉄橋(四万十川橋)が、100歳を迎えた。100年前に完成して以来、赤鉄橋は四万十市の中村の街と具同を結び、人や物の行き交いを支えてきた。けれど、赤鉄橋の100年を知る方法は、橋そのものを写した写真や記録だけではない。

橋の下で遊んだ人。
橋を渡って学校へ通った人。
川で鮎を獲った人。
橋の下でイグサを干した人。
そして今も、赤鉄橋の下で遊ぶ子どもたち。

四万十市が所蔵する写真資料と、そこに映る時代を知る人たちの記憶を重ねながら、赤鉄橋の100年をたどってみた。


90代 女性 舛谷さん

舛谷さん

私が嫁いだ20代の頃は、赤鉄橋の下がシーツなどを洗う洗濯場になっていました。水遊びや、石をはぐってエビ捕りもよくやりました。石で堰いて、ゴリも捕りました。ゴリは佃煮や卵とじにして食べました。

今では「川で洗濯をする」という光景は見られなくなった。けれど、当時の四万十川は、遊び場であると同時に、食べ物を得る場所であり、生活を支える場所でもあった。「川で遊ぶ」という言葉の中にも、今とは違う暮らしがあった。

舛谷さんの記憶には、もう一つ、忘れられない出来事がある。

舛谷さん

南海大地震の時には、橋が落ちて、親族が家に戻れなくなったこともありました。

100年の間、赤鉄橋は災害も経験してきた。それでも復旧し、再び人々の往来を支えてきた。

80代 女性 田村さん

田村さん
田村写真館

祖父の家が川沿いの百笑町にありました。

子どもの頃は洪水で家が浸水して、2階に避難したり、その後の片付けをしたことが記憶に残っています。

川には怖さもあった。一方で、子どもたちにとっては楽しい場所でもあった。

田村さん

赤鉄橋の下で、子どもをよく泳がせたり、エビやゴリを捕って遊ばせていました。今でも赤鉄橋は大事な橋です。ゴミ拾いに参加したり、排水に油を流さないようにしています。

田村さんには、まちの変化についての思いもある。

田村さん

今は、人の流れが中村の街から赤鉄橋を通って、ショッピングモールや大きなお店がある具同の方へ流れています。かつてのように、多くの人に赤鉄橋を通って商店街へ来てもらいたいです。

田村さん

Q.100年後、赤鉄橋はどうなっていてほしい?

歩道も狭く、怖いので自転車で渡るときは押して歩いています。100年後には、新しく作り変えてほしいです。

80代 男性 堀岡さん

堀岡さん
中央漁協

小6から赤鉄橋の下で落ち鮎を獲っていました。お婆さんが川で足が滑らないように、草鞋を編んでくれました。当時の落ち鮎の解禁日には、赤鉄橋から上流500メートルの間に6000人くらいの人が集まり、竿と竿がぶつかるほど立ち並んでいました。

鮎も今とは比べ物にならないほどいて、足で踏みつけるほど鮎がいました。半農半漁で暮らす人も多く、農業の稼ぎは生活費に充て、漁の稼ぎで子どもを大学まで行かせた人が何人もいました。一晩で20~30万円になることもありましたから。

「川が開くねえ」

堀岡さん
中央漁協

中学生くらいから投げ網で鮎を獲るようになり、それから毎年、落ち鮎の解禁日から3日間は会社も休んで獲りにいくようになりました。解禁日が近づくと、会社の人たちも慣れたもので、「川が開くねえ」と言って、配られる落ち鮎を期待していました。ここ中村では、それほど鮎と言えば落ち鮎なんです。

変わっていった四万十川

堀岡さんの記憶をたどると、赤鉄橋だけでなく、その下を流れる川の変化も見えてくる。

堀岡さん
中央漁協

昭和40年前後から河原で砂利の採取が始まり、下流から上流に向かってずっと採取していきました。そのせいで、河床が2メートルくらい下りました。採取前の赤鉄橋の下は、歩いて渡れるほどの深さで、夏は子どもたちの遊び場になっていました。

ところが、砂利を取ったせいで、深い所では7~8メートルになり、渦が巻くようになって、泳げなくなりました。鮎の産卵場も、不破の八幡宮の前だったのが入田へ移りました。

昔の赤鉄橋の下では、子どもたちが川を歩いて渡り、泳いで遊んでいた。堀岡さんによると、その後の砂利採取などによって河床が低下し、現在では当時とは川の流れも水深も大きく変わっている。写真に残る川の姿と、そこに暮らした人の記憶。二つを重ねると、赤鉄橋の100年は「橋の歴史」だけではなく、四万十川の変化を見つめる100年でもあったことに気づかされる。

70代 女性 永野さん

永野さん
永野漁網店

私は森沢という、赤鉄橋から4キロほど離れたところが実家でした。中村のお街で開催されるイベントの度に、ウキウキしながら赤鉄橋を渡りました。高校は中村高校に通うようになり、友達と自転車で2台並んで橋を渡りました。当時は、交通量も少なくのどかなものでした。

永野さん
永野漁網店

実家は農家で、米とイグサを作っていました。赤鉄橋の下でイグサを干していたのですが、雨が降りそうになると家族と運搬車に乗って、赤鉄橋を渡り、イグサが雨に濡れないように片付けをしていました。イグサは重労働で、父と母は、夏場は3キロくらい痩せていました。私もその手伝いをしていたのですが、それを見ていた周りの人から、「あの子はよく働くいい子」だと評判になり、ここ(永野漁網店)へ嫁ぐことになりました。

永野さん
永野漁網店

Q.100年後、赤鉄橋はどうなっていてほしい?

100年も経ったらちょっと心配。安全面を考えると、架けなおした方がいいと思います。


60代 男性 大田さん

大田さん
寝装の太田

赤鉄橋は、東側の中村の街と西川の具同を結ぶ流通の要暮らしを支える守り神です。配達の時は、遠回りになっても赤鉄橋を渡り、橋に挨拶したり、写真も撮ったりします。

大田さん
寝装の太田

子どもの頃から赤鉄橋の下で泳いだり、アユやイダ、エビやウナギを捕って、真っ黒に日焼けするまで遊んでいました。当時は真っ黒に焼けた子は、表彰されていましたね。これだけ素晴らしい自然があるのだから、今の子どもたちにも川で遊ぶ楽しさを知ってほしいです。


「戦争より、みんなとつながる架け橋」

大田さん
寝装の太田

赤鉄橋が架かる前は、中村の街は、後川と四万十川に挟まれた孤島のような場所でした。街の先輩方が、「戦争よりみんなとつながる架け橋」を願い、土地を無償で提供するなど、絶大な協力があって完成しました。私もその心意気に打たれました。


100周年を迎えて

大田さん
寝装の太田

私も、赤鉄橋が100歳を迎えるということで、当初はプチバースデーを企画しようとしていました。しかし、15歳まで中村で過ごしたデザイナーの山本広樹さんや土佐中村郵便局長を始め、支えてくれる人たちの熱量が自分を上回ってきて、大々的な記念祭になりました。このイベントを開催したことで、保育園児や小学生、高校生たちにもたくさん協力してもらうことができ、未来につなげることができたと思います。これからは、四万十川や沈下橋は観光名所になっていますが、赤鉄橋もベスト10に入るくらいの観光名所にしていきたいです。

左から大田さん、デザイナーの山本さん、土佐中村郵便局さん 写真提供:大田さん
大田さん
寝装の太田

Q.100年後、赤鉄橋はどうなっていてほしい?

耐用年数的に厳しいとは思いますが、補修を重ねながら現存させてほしいです。

40代 男性 岡村さん

岡村さん

私たちにとっては、守護神のような存在です。堤防や赤鉄橋が水害から守ってくれています。私が子どもの頃は、赤鉄橋の橋脚のところは渦が巻いているから近寄ったらダメと言われていました。でも、根性試しでよく泳ぎに行っていました。赤鉄橋の下は、自然豊かでドッグランやサッカー場があります。さらに充実させて、賑わってほしいです。

岡村さん

Q.100年後、赤鉄橋はどうなっていてほしい?

良くも悪くも、あのまんま、そのままであってほしい

30代 女性 大田さん・遠近さん

大田さん

私たちにとっては、四万十市の象徴で、あって当たり前の存在です。赤鉄橋の下にブラックバスを釣りに行ったり、夜にエビを捕ったり、今でもキャンプをすることもあります。中学生の時に橋脚のところで泳いでいて、溺れかけたこともあります。昔から遊んできた場所であり、今も遊びに行く場所です。

※右側の写真は大田さん提供


20代 女性 林さん

林さん

記念祭では、赤鉄橋のクッキーを作るため、橋をよく観察しました。自宅から職場へ赤鉄橋はよく歩いて渡ります。夕日が見える夕方がおすすめです。


10代 永野さん姉妹

詩葉さん

赤鉄橋が100歳を迎えるので、何かしてあげたくて、同級生で絵を描きました。赤鉄橋の下では、自転車に乗る練習をしたり、縄跳びをしたりします。お正月には風がよく吹くので、凧揚げをします。

ひまりさん

赤鉄橋の下は、初めて自転車に乗った場所です。夜にエビを捕りに行ったこともあります。

取材を終えて…

取材した人たちに、最後に同じ質問をした。

「100年後、赤鉄橋はどうなっていてほしいですか?」

答えはさまざまだった。形を残すのか、安全のために架け替えるのか。橋の未来についての考え方は違っていても、そこには共通する思いがある。

赤鉄橋を、これからも残していきたい。

9歳の永野さんから90代の舛谷さんまで、話を聞いていく中で、特に心に残ったのは、皆さんが「赤鉄橋を渡った思い出」だけではなく、「赤鉄橋の下で過ごした思い出」をたくさん持っていたことだ。

100年という時間の中で、赤鉄橋の下で行われることは変わってきた。けれど、そこが人の暮らしの場所であり、子どもたちの遊び場であることは、今も変わっていない。そして、赤鉄橋の記憶は、90代から80代、70代、60代……と受け継がれ、今の子どもたちへとつながっている。

今回の取材で、一番印象に残った言葉がある。

記念祭を企画した大田さんの「支えてくれる人たちの熱量が自分を上回ってきて、大々的な記念祭になった」という言葉だ。赤鉄橋が、ただ川を渡るための橋ではなく、四万十の人々にとって、もっと特別な存在だと再認識されたからではないだろうか。

写真展に残された昔の赤鉄橋と、今の赤鉄橋。その間には100年という時間がある。そして赤鉄橋はこれからも、四万十川の上に架かり続ける。その下で、また新しい誰かの「思い出」が始まっていく。

赤鉄橋、100歳。
次の100年も、人と川のそばに。

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