11月18日(日) 奈良県の奈良文化財研究所 平城宮跡資料館 講堂 で行われた「第10回文化的景観研究集会」に出席してきました。今回は10回目の記念集会ということで、原点に戻り考古学から文化的景観を再考するをテーマの会となりました。内容の詳細についてはいずれ奈文研から報告書が出されますのでそちらをご覧いただくとして、印象に残った内容をメモ程度ですが報告します。(文責 神田)
【研究報告1】
「モノを通じて見た地域の歴史-伝統工芸から見た京都の現在・過去・未来-」
木立 雅朗氏 先生(立命館大学)
考古学が科学たらんとするために主観的なもの、たとえば遺物の美的評価を切り捨ててきたことを省みて「(発掘されたモノが使われていた)当時の人々がなにを『美しい』と感じたのか、何を指向したのか、我々はその美意識を共有しているのか、という問題は、考古学にとっても避けては通れない問題のはずだ。」と仰る先生の「文化的景観を読み解くには考古学だけではなく、美術・心理学・歴史・民俗・民族学・文献等々学際的な知識が必要である。その意味で、専門分野に閉じこもりがちな学問の世界に生きる者にいい機会を与えてくれる。」木立先生のことばそのままではありませんが、そういった趣旨のお話しが印象的でした。
また、戦時中生き残りをかけて軍部に働きかけ軍部の指導の下陶器製地雷や手榴弾を製造した窯業の歴史について、当時の時代背景を勘案して「やむを得ないことだったろう」としながらも次のように続けられました。
私たちが日々愛用している焼き物の歴史は多様であり、すべてが戦争と関わっているわけではない。「戦時中、苦労した」話しは、「苦労させられた」話しとして受け継がれやすいが、軍部に協力したことと、それが戦後復興の資源となったことは、意識されることすら少ない。今、この歴史を受け継いでいる私たちは、この中から負の遺産を引き算するように受け継ぐことは出来ない。また、この事実を否定することも出来ない。これらの事実も戦後の輝かしい事実も、ともに「抱きしめる」ことが必要だと思う。私たちは歴史的選択を行うが、正しい歴史だけを選択して受け継ぐことは捏造に等しい。美しい歴史や美辞麗句を並べた歴史は、心を慰めることはあっても、心を強くすることが出来ない。そして、偏った歴史や解釈を導き出す。
歴史を学び、それを地域づくりに活かそうとする者にとって、肝に銘じておかなければならない言葉だと思います。
【研究報告2】
「都市域の文化的景観における考古学の意味-葛飾柴又の調査より」
谷口 榮 先生(葛飾区産業観光部)
葛飾柴又といえばなんといっても『男はつらいよ』ですが、東西方向に発達した微高地とそれを取り巻く低湿地、東を流れる江戸川という地形を基に、江戸川の河床の浅さから渡河地点となり、水陸交通が交差する要衝として機能してきた街です。微高地が居住地となり、低地は水田になりました。寛永6年に帝釈天題経寺が開基され、やがて江戸後期に庚申信仰とも結びつき、参詣客で賑わいます。明治30年に常磐線金町駅が出来、そこから東京近郊の行楽地となり、現在見られる中心部の参道景観が形成されるにいたります。また、明治44年にはじまった江戸川の堤防改修工事により、河川敷にあった住居・寺院・田畑等が堤内に移され、南側の町並みの基盤が出来ていきます。考古学的に見ると、よく言われることですが、ここでも「聖なる地」の連続性が確認され、現在神社や社叢林になっている場所が古代、中世には古墳だったり、墓所だったりするそうです。
【研究報告3】
「農山漁村の文化的景観における考古学の意味-五島の調査より」
松崎 義治 先生(五島市総務企画部)
五島市福江の南部にある「大浜遺跡(縄文後期~平安後期)」の発掘調査の成果から文化的景観を考察した内容のご発表でした。
五島列島は堆積岩と火山岩で出来ていて、ちいさな谷地が沢山あります。谷が海に出るところは小河川により砂州(小砂丘)が形成され、その陸側はラグーンとなります。五島では縄文晩期の気候変動により砂丘が急速に発達し、その上に貝塚や墓地が見られるようになります。時代は下って、江戸時代、未開拓地だったこうした谷に潜伏キリシタンたちが渡り暮らすようになりました。ラグーンは田に利用され、砂は畠の土壌改良材として利用されたそうです。
自然条件の地形がまずあって、人の利用があり、今の景観に繋がっているという、典型的な文化的景観形成の話しで、とても分かりやすく話していただきました。
【研究報告4】
「遺跡と現在との豊かな関係性」
杉本 宏 先生(京都造形芸術大学)
人は宇治の街を歩いているとき、平安時代以来の都市遺跡の上を歩いているとは意識しない。平等院の場合、鳳凰堂以外の堂宇の多くは南北朝期に失われ(楠木正成の放火のせい)、境内も近世に1~2メートルの嵩上げが行われている。宇治の街では、平安期に敷設された街路あるいは中世期の街路が、その1メートル上にシフトした位置で現代の都市道路として継承され、平等院では貴族たちが境内を歩んだ苑路と概ね一致している。
日本における遺跡の大半は、掘るという手続きを経ないと可視化できないのは確かだが、現在への脈絡という視点においては、現在の景観の中に遺跡は確かに影響を与えて立ち現れているといえる。
杉本語録
・場に意味を与える地下の遺物・遺構
・遺跡は景観の中に立ち現れている
・都市は必ず遺跡を重層している
・変化の理解は考古学の得意分野だ
・(余録)歴史学は自分の専門分野の終焉を語ることをしない←なるほどなぁ
杉本さん、安定の面白さでしたね。さすがはぶらタモリにも出た有名人。