春の四万十町十和地域(旧十和村)の名物といえば、「こいのぼりの川渡し」だ。毎年4月から5月にかけて、四万十川のほとりにある「こいのぼり公園」の上空に、川を挟んだ山と山をロープで結び、そこに約500匹のこいのぼりを泳がせる。
現在「こいのぼりの川渡し」は全国的に見られるが、十和の「こいのぼりの川渡し」が発祥と言われている。そこにはどんなドラマがあったのだろうか。
ソフトボールが盛んな旧十和村
旧十和村(現四万十町十和地区)はソフトボールが大変盛んな土地柄だ。昭和中学校(現在は十川中学校に統合)は、3度も全国大会で優勝している。地元の小学生の多くが、低学年からスポーツ少年団に所属し、大会に向けて日が暮れるまで練習に励む。
時は今から50年前の昭和48年、いつものように練習に励んでいたこども達の「最近は家で鯉のぼりを上げてくれんなった」という嘆きに端を発する。その意をくみ取った当時の体育会メンバーが、翌年、子供たちのこいのぼりを集め、50匹ほどを四万十川に渡した。これが「こいのぼりの川渡し」誕生の瞬間だ。
その後50年もの間、毎年こいのぼりを四万十川にかけ続けている。「こいのぼりの川渡し」を眺めるために「こいのぼり公園」も整備された。後に恒例行事として、地元の子ども達が集まり、こいのぼりを眺めながらのソフトボールの大会も開催されるようになった。大人と子ども達の固い絆を感じる。
これは余談になりますが、筆者中平は十和出身で、もちろんソフトボールに励む一人でしたが、「こいのぼり公園」で一番記憶に残っているのは、小学4年生の時(1997年)に、かの有名な全日本プロレスの試合が開催された事です!4000人に満たない小さな村に1550人を超える観衆が集まり、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、タイガーマスク、スタン・ハンセンなどそうそうたる面々が熱き戦いを繰り広げました。土砂降りの中、大興奮しながら観戦したことを覚えています。
余談の余談:
大切なことはプロレスラーに教えてもらった。(本文とは全く関係ありません。読み飛ばしてください。)
事務局長の神田です。1971年生まれの私もジャイアント馬場さん、アントニオ猪木さんが牽引するプロレス黄金時代を知る世代です。高校時代、プロレスが来ると部活の先輩後輩みんなで観戦に行きました。全日(馬場さんの方の団体)が来た時のこと、通用口から出てきた馬場さんを見て「あーっ、馬場だ、馬場だー。」と興奮して叫んだN先輩に対して、横にいた永源遥さん(ロープサイドでの攻防で胸板にチョップを受けると客席に向かって唾を吐いてしまうのがお約束になっているちょっとコミカルなレスリングをするベテラン。普段はニコニコしている。)が、
「 馬 場 さ ん 、 だろう? 」
とこっちをジーッと見ておっしゃられて、「馬場だ」と名指しした先輩と周りにいた我々男子バレー部一同気をつけになって「失礼しましたっ。馬 場 さん、でした。」と腰を90度に曲げてお詫びしたのを思い出します。馬場さんは終始笑顔で、手を上げて我々の90度の礼に答えてくださいました。他にも、試合前にランニングするアントニオ猪木さんに出会ってやはりN先輩(なぜかいつもこの人がらみ)が「こんにちはっ。」とご挨拶したら、「やぁ、こんにちは。シャツ出してんじゃねぇ。」と言われたのを見て、われわれ男子バレー部一同はその後全員シャツインになったことなど思い出します。
レスラーの皆さん、いろいろ教えていただき、有難うございました。おしまい。
十川体育会メンバーへのインタビュー
この「こいのぼり公園」での第1回ソフトボール大会で選手宣誓した山本大輔さんに話を聞いてみた。大輔さんは、こいのぼり川渡しを主催する十川体育会の前会長でもあり、スポーツ少年団の監督も務めていた。現在は四万十町議会議員だ。
Q やっていて大変なことは何ですか?
山本さん:「みんなボランティアやし、人を集めることが大変やね。でも子どもたちに自分たちの姿を見せることで、これを受け継いでいきたい。他の地域でも、こんな事やってみたらきっと盛り上がると思う。」
今年は「こいのぼりの川渡し」が始まって50回目のメモリアルイヤーになる。それに合わせるかのように、とある所から十川体育会にこいのぼりが届いた。その経緯を十川体育会 副会長の松元健一さんに聞いてみた。
松元さん:「平成9年にナイアガラの滝で鯉のぼりを泳がせる話が持ち上がった。国際交流員として2年間十和に赴任していたアメリカの方の提案だった。川幅260メートルのナイアガラ川に200匹の鯉のぼりを泳がせることができた。今年、ナイアガラまで旅したそのこいのぼりたちが里帰りした。50年続いたので、次は100年を目指したい。死ぬまでやるつもりだ。」
当時高校生だった松元さんは、現地のナイアガラまで行っている。その時の写真を提供してもらった。
こいのぼりを渡す4月14日朝、一番に現場に来たのは芝陽一さんだった。陽一さんは川渡し歴47年目の大ベテランだ。こいのぼりの川渡しは、林業の技術・知識がないと難しく、危険だ。特に、ワイヤーを山と山に渡し木材を搬出する「架線集材」の技術を要する。陽一さんは林業歴も50年の大ベテランだ。もう一人のベテラン山師、武内さんと共に、架線を張る中心メンバーになっている。今後はこういった技術を受け継ぐ若手を育てることが課題だと言う。
陽一さん「とにかく安全第一でやりたい。過去にはワイヤーが流されて危険な事もあった。昨日も巻き付けていた新品のワイヤーがほどけて危なかった。これまでいろんなピンチがあったけど、みんなで協力して乗り越えてきた。見に来てもらった人たちに『来てよかったー』と感動を与えることができれば最高だ。」
今年は陽一さんのアイデアで、1歳になる男の子の節句を祝って、1匹目にその子のこいのぼりを付けた。「1匹目に付けることでちょうど国道の真上に来るから、この子がそこを車で通るたびに話題ができていいと思う。」
温かい配慮と心意気を感じる。
川渡しの発案者と実行者
第1回目のこいのぼりの川渡しから参画し、十川体育会会長も務めたことがある松元昭夫さん(72)には、こいのぼりを四万十川に渡すというアイデアを思い付いた人物が誰なのか、尋ねてみた。
松元さん:「思いついたのは安岡宏高さんです。それを松元建設の先代が中心になって形にした。自分も松元建設社員で、1回目から関わってきました。今後も動けるうちは頑張りたい。30~40代の後継者を育てることが課題です。」
安岡宏高さんは旧十和村の村長を務め、2022年の12月に亡くっている。妻・千代さんが遺影を持って、こいのぼりが架けられる様子を一緒に見守っていた。
千代さん:「(安岡さんが)動けなくなってからは、娘が連れて毎年見に来ていた。発案したことを自分の手柄にする人じゃなかった。」
この後、中学2年になる孫の芝丈介くんにも話を聞いてみたが、「おじいちゃんが発案したとは最近まで知らなかった。」と語ってくれた。自分の手柄にする人じゃなかったという話は本当のようだ。発案者として、あちらの世界で少しでも脚光を浴びる事に貢献できれば嬉しい。
あとがき…
十川体育会の60代以下の世代は、大人たちがこいのぼりを渡す姿や色々な催しを見て成長してきた。現在は自分たちがこいのぼりを渡す側になり、子どもの頃には分かり得なかった苦労や手弁当で地域の子ども達を思う温かさに気づかされることもあるのではないだろうか。そういった気づきは地域の取り組みを支える大きな原動力になると思う。
50年目を迎えた子どもと大人達の絆が、循環しながら今後も受け継がれていくことを願う。