葛飾柴又が寅さんだらけ。ちょうどこの日は男はつらいよロケ地が一堂に会す「寅さんサミット」の日で、たくさんの寅さんファン(もちろん寅さんコスプレのファンも)も押しかけていました。そんな中、葛飾柴又の文化的景観のエクスカーション始まりです。

葛飾柴又の文化的景観は、半径1キロ以内に多くの歴史的スポットが集中しているのが魅力です。文化的景観保護実務研修会でも現地見学をしましたが、その時には気づかなった発見も多くありました。

この日最初に訪れたのは、柴又の玄関口である柴又駅。帝釈天の最寄り駅として多くの参拝客が利用してきました。駅を降りたらすぐ帝釈天の参道に入ります。汽車になる前は、帝釈人車鉄道という、手押しの車が通っていたそうです。道のりにして約1.2キロ。なんと人が手押しで動かしていたとは、、、相当な重労働だったのではないでしょうか。駅前の広場には、寅さんと妹のさくらさんの銅像が設置されていて、たくさんの人が記念撮影をしていました。

今度は参道の脇を通って線路沿いを歩きます。参道の賑わいとは打って変わり観光客のいない静かな通りですが、こちらがかつての幹線道路だそうです。この道は国分道(※葛飾新宿で水戸道から分岐し柴又につながる古道。かつては矢切の渡しまで通じ、そこから下総国府に通じていた。)につながり、沿道に寺社が配置されていて、下手道(※葛飾区立石方面から江戸川までをつなぐ幹線道路)とともに帝釈天へ向かう主要道路として参拝客で賑わう信仰の道でした。

その国分道沿いにあるのが、次の目的地、柴又八幡神社です。この神社は古墳の上に造られていて、人型の埴輪なども出土しています。なかには帽子をかぶった寅さんそっくり(?)な埴輪も出土し、「寅さん埴輪」として話題になったとか。また境内には用水碑や勧農事績碑などもあり、柴又の農業に関する歴史も詰まった場所でした。

再び駅の方に戻り、参道入り口付近に整備されている水路を見ました。この水路はかつての柴又用水を復元したもので、江戸時代には周辺の水田を潤していました。今は住宅街になり、用水は暗渠となってその姿は見えません。そこで、用水があったことを伝えるためにこの水路が整備されました。かつての柴又はのどかな田園風景が広がる場所だったんですね。水場の他にも、道路の幅や橋の跡から、かつてここに用水路が通っていた名残を感じることができます。昔は、用水側に裏口と階段を設けて下りられるようにし、生活用水としても利用していたそうです。

用水跡に沿って住宅街を歩いていると、ひときわ古い建物がありました。明治期に建てられたもので、母屋と納屋、門、庭、庭木で構成され、当時の農家屋敷を今に伝える重要なお宅です。柴又のすぐ近くを江戸川が流れていますが、住宅街周辺は微高地であり、水害もあまりないのだそう。昔の人はちゃんと地形を分かったうえで、居住地を選択していたのだなと感じました。

 次にやってきたのは、葛飾柴又寅さん記念館。「男はつらいよ」のセットが再現され、その世界にどっぷり浸かることができます。わたしは作品自体見たこともないですが、昭和にタイムスリップしたようで、かつての柴又の暮らしを想像しながら楽しむことができました。上で紹介した帝釈人道鉄道のモニュメントの展示もあり、帝釈天とのつながりや柴又の発展の歴史も見ることができます。記念館隣には山田洋二ミュージアムも併設されています。

記念館のすぐ上には、江戸川河川敷が広がります。ここは歌謡曲でも有名な「矢切の渡し」があるところです。都内に残る唯一の渡し場で、今では観光の役割が強いですが、かつては千葉県の市川や松戸に向かうための重要な渡し場でした。昔はさらに上流にももう一本渡し舟が出ていたそうです。河川敷はスポーツを楽しむたくさんの人や観光客でにぎわっていました。また寅さんのコスプレをしたおじさんにも出会えました。素敵な水辺の空間です。

次に向かったのは寅さん記念館のすぐ後ろにある山本亭。ここは大正時代、カメラ部品の製造で財を成した山本栄之助が建てた屋敷で、近代和風建築と見事な庭園が広がっています。和洋折衷な造りからも時代の特徴を感じることができます。現在は一般公開されており、庭園を眺めながらお茶を楽しむこともできます。その歴史的な造りから、ドラマの撮影に使われることもあるそうです。

次に向かったのは、真勝院という古くからあるお寺。800年代創建といわれる柴又で一番古いお寺で、江戸時代に創建された帝釈天よりもずっと前から、柴又の人々の信仰の対象となってきました。かつては柴又八幡神社の別当寺だったんだそうです。古い檀家さんも多いそうで、地域でとても大切にされているようでした。

最後に訪れた”帝釈天”は、正式には経栄山題経寺といい、1629年創建、本尊は言わずもがなの帝釈天です。このご本尊は一度行方不明になっていましたが、ちょうど庚申の日に再発見されたことから、庚申信仰(注)で有名なお寺になりました。もともと庚申待ちは身を慎んで行うものだったようですが、江戸っ子はそれを理由に飲み明かしたらしく、参道に飲食店が並ぶようになりました。
二天門をくぐると、立派な松がかかる帝釈堂が正面で参拝客を出迎えます。圧巻の彫刻が施されたお堂で、ここに帝釈天板本尊が祀られています。「立派な本堂だな~」と思ってしまいますが、実はその右手の建物こそが本堂(祖師堂)なんです。でもやっぱり勘違いされる方は多く、帝釈堂の前で手を合わせて本堂はスルーしてしまう参拝者も数多くいるとか…。二天門の入り口では「男はつらいよ」のテーマソングが流れていて、寅さんのまち柴又を演出していました。帝釈堂の前の「瑞龍の松」もお見事なので、訪れた際にはぜひ見てみてほしいです。

題経寺の帝釈天は病気平癒にご利益ありとされ、スペイン風邪が流行った際にも関東内外からたくさんの方が参詣したといわれています。そんな”病気に強い”というイメージから、抗菌効果のあるよもぎを使った草団子が名物となったのではないかと言われれています。だから寅さんは病気もしないで全国を旅することができたのかもしれませんね。

庚申信仰
十干十二支の組合せの一つで、60日または60年ごとに巡ってくる庚申 (かのえさる) の日に営まれる信仰行事。元来は道教の三尸 (さんし) の説に端を発している。人の体内にいる三尸という虫が、庚申の夜に人が眠るのを見澄まして天に昇り、天帝にその人の罪を告げる。すると、天帝はその人を早死にさせるというのである。したがって、長生きするためには、その夜は眠らないで身を慎むのである。これを守 (しゅ) 庚申という。三尸の説は中国では晋 (しん) の時代から説かれていたというが、日本では平安時代の貴族社会において守庚申が行われてきた。そして、僧侶 (そうりょ) の手によって『庚申縁起』がつくられるようになる室町時代ごろから、しだいに仏教的な色彩を帯び、庚申供養塔などが造立されるようになった。一方、民間にも広まり、村落社会の講組織などと結び付いて、仲間とともに徹夜で庚申の祭事を営む習俗である庚申講や庚申待 (まち) といった形で定着していくのである。ただ、庚申様といっても信仰対象が特定されていたわけではないので、その時々の仏教や神道 (しんとう) の影響を受けたのであるが、青面 (しょうめん) 金剛や猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ) を本尊とする場合が多い。庚申と猿との関係や道祖神との習合もそうした過程で結び付いたようである。いずれにしても、庚申信仰の中心は夜籠 (よごも) りするということであったらしく、この夜できた子供は泥棒になるとか、「話は庚申の夜」というような眠ることに対する禁忌がいまだに伝えられている。

“庚申信仰”, 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2023-02-02)