四万十川流域文化的景観連絡協議会(文景協)で、津野町芳生野の口目ヶ市集落にて景観学習会を行いました。

口目ヶ市集落は四万十川の裏源流、北川川の最上流域に位置し、両サイドに急峻な山がそびえその山裾に集落が形成されています。仁淀川町に抜ける峠道沿いにあり、仁淀、伊予から訪れる商人で賑わっていたそうです。またこの集落には古い建物がいくつか残っており、山間の集落景観と合わさって何とも趣ある景観を見ることができます。

今回はそんな口目ヶ市集落にある五藤家住宅を中心に、NPO 高知文化財研究所の溝渕博彦氏にご説明いただきながら、集落を視察しました。

口目ヶ市集落は、お茶や楮の生産地として栄えました。伊予から買い付けに来る商人も多く、そういった人が寝泊まりできるように宿屋もあったそうです。そんな集落で、かつて診療所を営んでいたのが今回訪れた五藤家住宅です。明治期の特徴がよく残っているこの建物は、主屋と厩、納屋が文化的景観の重要構成要素になっています。少し高い場所にあり、道路から建物の全体がよく見えます。全体的に黒くなった外壁が何ともかっこいいですね。

・厩兼倉庫

まず案内されたのは厩。この建物は2階建てで、2階が厩、1階は倉庫になっています。昔は厩で往診用の馬と、農耕用の牛を飼っていたそう。床は一部取り外し式になっており、糞を一階に落としてしばらく熟成させ、それを畑の肥料に使っていたとか。考えて作られてるんですね。建物を支える石垣も立派です。

続いて主屋を見学。ここは1階は明治期のものですが、2階は大正に入って増築された面白い建物で、かつては診療所として利用されていました。玄関入ってすぐ左に診療所、正面に薬局、右側が病室となっていたそうです。病室だったスペースは、現在は居間になっており、きれいに板敷にされていますが、かつては畳敷きでベッドもあったとのこと。所々住みよいように手を加えられていますが、かつての様子を思わせる特徴的な作りが随所に残っています。その一つが間仕切り跡。今は間仕切りをとって広々とした空間になっていますが、診療所だった当時は田の字型に間仕切りされ、それぞれ別の部屋として使われていたようです。中には柱が面取りされている部屋もあり、溝渕先生によると来客用の部屋として使われていたと考えられるそうです。

この他にも五藤家には興味深い箇所がいくつもあります。まずは門や厩に使われている瓦。これは桟瓦という瓦で、かつこれは右側に桟がある左桟瓦。(一般的には左側に桟がある右桟瓦が多いんだそう。)右瓦を使うか、左瓦を使うかは、台風や雨の風向きによって変わるそうです。また厩の外壁は木造ですが、水切りも木で造られています。高知県には水切り瓦がついている建物が多くありますが、木造なのは珍しいんじゃないでしょうか。

当時の貴重な造りが今も残る五藤家住宅。以前は四万十川流域で行われている「四万十街道ひなまつり」のイベント会場として活用されていたそうですが、今は別のところが会場になっています。地域拠点として活用されていましたが、住人もご高齢ということもあり、負担も考えるとなかなか目立った活用も出来ないというところが現状なようです。そしてもう一つの課題は、後継ぎがいないこと。どう活用しながらどう守っていくか、難題ではありますが、文景協を通してそのヒントを探っていけたらと思います。

口目ヶ市集落に残っているのは古い建物だけではありません。昔から伝わる風習も残っています。例えばこのしめ縄。あるお宅の門に飾られていたものですが、門柱にしめ縄、柊を飾る習慣が口目ヶ市には残っています。これは少し離れた布施ヶ坂という地域にもみられるそうです。

最後に訪れたのは古い建物の前。ずいぶん荒れてしまったこの家も貴重な建物であることには違いありません。しかし、こういった建物を守る対象に含めるべきなのか、そうでないのか、判断が難しいところではあります。溝渕先生は最後に「保存するだけで,活用しなければ意味がないのだ」と仰っていました。実際に溝渕先生は四万十街道ひなまつりなど、文化的な建造物を活用したイベントを行ってこられました。この景観学習会は活用を考えることを目的に進めているので、先生の言葉はまさに景観学習会のテーマそのものでした。今回の景観学習会が無駄にならないよう、次回の文景協でしっかり活用について話し合いたいと思います。